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毎日書道会
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 > 書壇を結集してスタート
 > 草創期の毎日展
 > 毎日書道展と毎日前衛書展の時代
 > 全国に拡大する毎日展
 > 財団法人の発足と新生毎日書道展
 > 新機軸を打ち出す毎日展
 > 平成の書・21世紀の書を求めて
 
 
 毎日書道展は、昭和 23 年( 1948 年) 8 月東京・上野の東京都美術館で開かれた「全日本書道展」がその始まりであり、翌昭和 24 年 8 月には「日本総合書芸展」として開催された。翌年は 1 回休み、 3 回目の昭和 26年( 1951 年) 8 月開かれた展覧会から「毎日書道展」と改称され、現在に至っている。(文中敬称略)

書壇を結集してスタート
【全日本書道展】

 第2次世界大戦は、日本の文化・芸術も戦時体制に組み込んだ。書道界も例外ではなく、昭和18年(1943年)泰東書道会、東方書道会、興亜書道連盟、三楽書道会などの団体が「書道報国会」の名のもとに統一された。
 昭和20年(1945年)8月15日の終戦で、「書道界」は雲散霧消したが、その中から静かだが復興の歩みが始まっていた。豊道春海、田中真洲、手島右卿、飯島春敬4氏が語り合い書道界の再起を期し、尾上柴舟、香川峰雲、金子鷗亭、大澤雅休各氏らも加わって、昭和21年5月に日本書道美術院が設立された。そして早くも同年8月毎日新聞社の後援で、東京・上野の東京都美術館で第1回展が開かれた。
 一方、日展に書部門を新設する運動も進められ、芸術院会員の豊道春海をはじめ、尾上柴舟、手島右卿らの働きかけで、昭和23年(1948年)に日展に「5科」が新設されることになった。
 書が日展の一部門に加えられたものの、民間、ことにマスコミの世界にも書を美術として認識してもらう必要があり、新聞社主催の書道展の開催を望む声も強くなった。昭和22年の第2回日本書道美術院展の準備を進めている際、後援の毎日新聞社事業部との間で、毎日新聞社主催で書道展を開くことが話し合われた。飯島は日書展を通じて同社事業部と面識があり、金子は戦前から毎日新聞社書道部の講師をしており、社内に知己も多かった。両氏が中心となり新聞社との話し合いが進められ、この年、夏も終わりになって毎日新聞社主催の書道展を開催することが決まった。会場は、日書美が予約している翌年分の東京都美術館を提供した。
 「全日本書道展」は昭和23年8月14日から20日まで開かれた。尾上柴舟、豊道春海、山口蘭渓3氏を顧問に、飯島春敬、上田桑鳩、金子鷗亭、辻本史邑、手島右卿、柳田泰雲の6氏が運営委員を務めた。部門は漢字、かな、篆刻の3部門で、審査員総数39人。公募総数638点、入選率83%であった。
 付記しておきたいのは、国立博物館の後援で「平安朝名品展」が併催され、御物「寛平御時后宮歌会・伝宗尊親王筆」、国宝「古詩残簡(本能寺切)伝行成筆」、同「古今集序(伝俊頼筆本)」、同「宝簡集(西行書状)」など25点が展覧されたことである。

【日本総合書芸展】
「全日本書道展」が成功裏に終わったことから、毎日新聞社は引き続き書道展を主催することになり、昭和24年(1949年)8月、東京都美術館で「日本総合書芸展」が開かれた。参加団体は日本書道美術院、書道芸術院、日本書芸院、書壇院はじめ各地域の団体も参加、広がりを見せた。運営委員は前年と同じで、実務は山口蘭渓事務局長、飯島春敬庶務部長の体制だった。
 部門は前回の「漢字」「かな」「篆刻」に、新たに「新書芸」と「硬筆」が加わり5部門になった。昭和23年に日展に「5科(書)」が新設されたが、部門は長い間、漢字、かな、篆刻の3部だった。在野の書道展として、現代の新しい表現を求めていく毎日展の姿勢が、早くも現れた と言えるだろう。
 ところが展覧会が閉幕してから、思わぬ難問が持ち上がった。事務局から新聞社に対して事業報告が出来なくなったのである。当時、食糧事情も悪く、美術館で炊き出しをした。闇米を買っての炊き出しだが、とても領収書はとれない。庶務部長の飯島は領収書のない経費を認めない。事務局員の毎日新聞社員はついに会計報告が出来ず、昭和25年の展覧会は中止になった。
 「経理上の整理といっても、当時はヤミの時代で、すべてがヤミでなければ手に入らなかったのである。文房具も、食糧もすべてがヤミだったので、ヤミである限り、例えば米の領収書も手に入らない。そんな時代に領収書つきの経理など出来っこない」(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」での飯島春敬の文から)。
 「創設時、まだ出品者の立場ではあったが、会場に住居が近いということから、事務局の一員として、出品者名鑑編集の仕事をお手伝いすることとなった。この時の最も鮮明な思い出は、事務局員の昼食は、コッペパン1個であったことだ。お米が配給制度に統制されている 以上、米飯を食堂で給することは、お米持参でなければならなかったのである」(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」での竹田悦堂の文から)。そういう時代だったのである。ちなみに第1回展の公募出品料は、縦1丈2尺まで1点100円であった。

草創期の毎日展
【再開した毎日書道展】

 昭和25年の展覧会休止中にも、再開を巡っての話し合いは続けられた。金子の書の弟子でもあった衆議院議員・小峰柳多が間に入り、小峰、金子鷗亭、飯島春敬各氏と黒崎貞次郎毎日新聞事業本部長で相談、「毎日書道展」として復活させることになった。
 展覧会の名称は改まったが、開催回数は「全日本書道展」を第1回として通算され、「第3回毎日書道展」の運営委員会は昭和26年(1951年)2月に開かれた。2日間にわたる会議で、第3回展の運営は当時の中堅(40歳代)を中心に運営されることになり、尾上柴舟、豊道春海、山口蘭渓、渡瀬亮輔4氏を顧問に、山口事務局長、金子鴎亭庶務部長体制が決まった。運営委員も大幅に増え25人になり、審査員も決まって散会した。
 ところが翌日になり、関東の2書道団体から審査員各1人の増員要望があった。なんとか関東の他書団体の了解を取り付けたが、関西の団体には電話というわけにはいかない。金子庶務部長が説明に向かった。
 金子鷗亭、宮本竹逕、村上三島各氏の「想い出ばなし」(『毎日書道展30年の歩み』に所収)によると、3氏に辻本史邑を加えた4氏が大阪市内で会い、金子が説明したが、辻本は運営委員会で決まったことを覆すのは認められない、と怒って中座して奈良の自宅に帰ってしまった。 他の3氏は困りはてこの夜、吹田市の当時の村上宅に泊まった。翌朝、宮本、村上両氏が奈良に辻本を訪れ、再度説得し了承を取り付け、ことなきを得た。危なく空中分解しそうだった第3回展開催にまつわるエピソードである。
 第3回毎日書道展は昭和26年8月、東京都美術館で開かれた。前回展の「新書芸」部を「新傾向の書」とし、「硬筆」部を廃止して「工芸」として5部門制。公募5部門の規定は
 第1部 漢字
 第2部 かな
 第3部 漢字、かなで特に新傾向のもの
 第4部 篆刻(印影は壁面に掲げられるよう表装のこと。雲板等でもよい)
 第5部 工芸(書を応用したもの、木額陶芸等)
となっている。審査は厳しく、入選数404点で、従来の総理大臣賞、特別賞、推薦、特選、褒状はすべて廃止され、新たに毎日賞と秀作賞が設けられた。公募出品料は300円であった。
 運営組織も一応形が整い、初めて「毎日書道展作品集」が刊行された。展覧会の運営は、昭和38年(1963年)の第15回展まで、金子鷗亭が庶務部長(昭和30年第7回展から総務部長)を務め、第16回展(昭和39年)から、毎日新聞社内に事務局を置き、同社が積極的に運営に当たる ことになった。

【新しい書の模索】
 一応軌道に乗った毎日書道展だが、従来の漢字、かな、篆刻以外に書の新しい表現を求める書家は多かった。 もちろん漢字、かな、篆刻も現代的な表現を求める動きは旺盛だった。それらの動きが端的に現れたのが、公募の部門設定であった。
 昭和32年(1957年)の第9回毎日書道展までの部門の変遷を追うと
 第4回展 第3部「新傾向の書」を「新傾向のあるもの」と改めた
 第5回展 第5部「工芸」を「工芸、商業美術」と改めた
 第6回展 第3部「新傾向のあるもの」を2部門に分け、第3部「墨象美術」、第4部「近代詩文」とした。第5部は「篆刻」と「工芸」が合体し「篆刻・工芸」となり、「商業美術」は廃止された
 第9回展 大幅な部門替えと名称変更で5部門制に
第1部 「漢字作品」
第2部 「かな作品」
第3部 「篆刻作品」
第4部 「近代詩文作品」
第5部 「前衛作品」
となり、名称も現在のものに近付いた。
 新しい書の動きは戦前に萌芽が見られた。昭和8年(1933年)8月、比田井天来門の上田桑鳩、手島右卿、鮫島看山、金子鷗亭、桑原翠邦、大澤雅休、鈴木鳴鐸等を中心に書道芸術社が結成され、雑誌『書道芸術』に斬新な書論を展開し、実作に向かっていた。
 毎日展にはそういう新しい気風、思想を持つ人が最初から参加し、漢字かな交じりの近代詩文書を書くグループ、少字数を書く人たち、文字性を離れて線の美しきを追求する人たちなど、いろいろ表現を求めていた。やがて部門として独立していくが、当初は漢字部門や新傾向の書部門の中で作品出品をしていた。
 中でも前衛書をリードしていた上田桑鳩、近代詩文書運動を展開していた金子鷗亭が、2部門の独立を働きかけた。昭和29年(1954年)2月の第6回展運営委員会で論議されたが、従来の書道展のイメージから、部門の新設は不賛成と言う意見も強かった。判断は毎日新聞社事業部長(当時・森口忠造)に一任され、第6回展から2部門が新設された。部門の呼称では、「墨象美術」という言葉には当初から抵抗感があり、第9回展で「前衛」に改められた。  一方、伝統的な分野でも着実に作品は変化した。特にかな部門で顕著に現れた。全日本書道展のころのかな作品について、熊谷恒子は「その頃の作品は、今のような大字は無く、枠装も、硝子張りもありませんでした。掛軸のほかにガラスケースに入る巻子本冊子の出品が多く、見返しの美しい冊子、絢爛たる料紙、典雅な茶がけなど、とても色どりが美しい・‥」と書いている(『毎日書道展30年の歩み』所収の「想い出ばなし」から)。しかし漢字など他部門の大作、大字作品と比べると、どうしても小さく見える。
 第4回展では、かな部門で軸、巻物、冊子のままでよいのか、屏風、額、枠装に統一して、壁面陳列に切り替えようなど、活発に議論された。そして第6回展(昭和29年)から、かな作品の壁面陳列が実施された。そのことで、かな作品に変化が見られるようになった。当時の大字かなの動きを、かな書家の2氏が次のように記している。
 植村和堂「戦前の展覧会には大字の作品というものは珍しかった。大字と言っても半切に2行書きくらいだった。 …戦後の30年間で最も大きく変化したのは大字かなの書風であろう。かなの線質はしなやかで、優美で、とかく広い展覧会場では弱々しく見え、迫力に欠ける嫌いがあったのだが、次第に独草体(草の手)を多く用い、線質も漢字の明清調を採り入れ、直線が多くなり、渇筆、破筆を駆使して、会場作品としての効果のあがるような大字かなに変身していった。…かな書道史の上で永久に記録されるべき大きな出来事と言えると思う」(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)
 仲田幹一「私はかな陣営の中で、大字かなの研究をしていた。当時のかな作品は、小さい字、つまり細字が常識だった。展覧会に出品された作品にしても、のぞき込んで見なければならないような細字ばかりであった。 …苦心したのは、古筆の細字をそのまま拡大してはならないことで、大字の線はそれぞれ多様の変化を創造しなければならなかった。…細字と決められていたかなが、大字主義へと転向していったのは、昭和書道史の一大変革であると思っている。その意味で毎日書道展の果たした役割は、大変大きい」(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」)
 再開した毎日展は公募点数が増え続け、昭和32年(1957年)の第9回展では入選点数は1,119点と大台に遷した。公募点数は2,500点に迫っていた。

毎日書道展と毎日前衛書展の時代
【毎日前衛書展が独立】

 書の表現法が多様化し、「部門」という枠の中で審査(評価)が行われると、評価は様々に分かれ、ついには芸術観・審美観の差という個人的な観点にまで行き着いてしまう。ことに新しい傾向の書の評価については、顕著に現れる。日展5科で、このことが顕在化した。
 昭和28年(1953年)の日展(漢字部門)に出品しようとした故大澤雅休の遺作「黒嶽黒谿」が陳列拒否され、論議を呼んだ。さらに昭和32年(1957年)には上田桑鳩の作品「愛」(「品」という文字)を巡って、「品という文字の題名が、どうして愛なのか」など、芸術論とは違う論 議にまで発展し、上田は日展を退会、やがて前衛書を追求していた書家は、こぞって日展を去った。この問題は、当然のように毎日書道展に及んだ。
 昭和33年の第10回展を前に、毎日書道展顧問の豊道春海(日展常任理事)が日展問題のしこりから、顧問辞退を申し出た。毎日展は分裂の危機に直面し、窮余の策として前衛書が毎日展から離れ「毎日前衛書展」として独立することになった。「それで森口先生(忠造・毎日 新聞社事業部長)と僕(金子鷗亭)と2人で豊道先生のところへ行った。『(豊道)先生、ご希望通りにお受けします。毎日書道展から前衛書を外しますから、先生の席はいままで通りです』『それならいい』」と、金子は経緯を語っている(『毎日書道展40年の歩み』の座談会)。
 独立した方の宇野雪村は「日展系の豊道系の人たちを引き揚げようとしたわけだ。それじゃ、毎日展はつぶれちやって困るから、我々が別に部を作って出た方がいいということで、前衛展という部にしたわけです。だから離縁状をたたきつけられる前に、こちらが離縁状を書いた(笑い)」と話している(同座談会)。
 こうして昭和33年(第10回毎日書道展)から昭和43年(第20回毎日書道展)までの11年、前衛書は第1回毎日前衛書展から第11回毎日前衛書展まで、同一会期に同じ東京都美術館を会場に開催された。第9回前衛展から第11回までは第1科(文字性作品)、第2科(非文字性作品)に作品を分類している。結局、昭和43年(1968年)に上田桑鳩が亡くなり、昭和45年(1970年)には豊道春海が亡くなったが、それ以前に諸般の事情から前衛書展を独立させておく必要もなくなっていた。
 この11年間を、宇野雪村は「毎日前衛書展を運営した約10年間は、上田桑鳩先生の力によるものだったと言える。先生亡き後、大同団結の錦の御旗に応じさせられて再び毎日書道展となったのは昭和44年だった。11年間の前衛書展は、楽しくもあったが苦しくもあった。苦しさに堪え切れなくて毎日展に合流したと言えば語弊があるが、苦しむことの疑問に堪え切れなかったとは言えるかもしれない」と振り返っている(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)。

【少字数書と刻字部門】
 分離した第10回毎日書道展から、公募作品を対象にした毎日賞、秀作賞のほか、新たに委嘱作家の優秀作品に毎日書道展大賞・準大賞が贈られるようになった(前衛展は翌昭和34年、第2回展から)。公募部門の入選率は63%で、入選数は1,036点だった。
 前衛書以外にも、新しい書の表現は多岐にわたって試みられ、従来の部門では収束できないようになってきていた。第12回展では第3部(近代詩文作品)を、第3部A(近代詩文作品)と第3部B(少字数作品)に分け、少字数作品は、それまでの漢字部門から離れ、翌36年の第13回展から第1部(漢字作品)、第2部(かな作品)、第3部(近代詩文作品)、第4部(少字数作品)、第5部(篆刻作品)の5部門となり、これに前衛書が加わる形になった。 新分野の躍進が目立ち、入選作品数は1,077点だった。
 篆隷、行草などの書体にあまり拘束されず、少ない字数を大書する「少字数作品」は、文字の造形、墨色など新しい表現が追求されていた。この分野のリーダーは手島右卿、松井如流らだった。松井は「第4部が出来た初期の頃には、新設の部門でもあり、なかなか部の方向もきまらぬ風であった。その当時は、第4部は手島氏と私とが中心でもあった。審査に当たっても、殆ど2人の意向で大体きまるという具合であった。その際、2人はお互いに譲り合いの下に鑑別審査を行ったから、それがいかにも妥当な線が出るのであった」と述べている(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)。
 昭和38年(1963年)の第15回記念展(併催・第6回毎日前衛書展)では、新たに第6部(刻字作品)が加えられて、魅力を増した。公募数は2,866点で、うち入選1,614点である。功労者表彰、記念作品集刊行などのほか、全国14都市巡回の「現代書道展」も開催され、現代書の姿を紹介した。
 刻字部は篆刻部から派生した。刻字という名称はなかったが、篆刻家のうちでも木版に金石文字や篆書を刻む人たちもいた。大久保翠洞は刻字部の創設について「刻字という名詞がない大正の末期から小生は『篆刻の壁面に於ける活躍』というテーマで研究し、苦心し、独自の世界を開拓して来たこととて、刻字部の創設については香川峰雲を筆頭に内藤香石、山田桃源、酒井康堂等とともにその創設に協力した。そしてこれらのメンバーを中心として30名ほどの同志が、小生の主催で(茨城県)古河市の料亭で会合を持ち、その結果日本刻字協会の発 足となったのである。毎日展の刻字部はこれによって確固たる基礎を得…」と語っている(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」)。
 この第15回記念展の段階で、「漢字」「かな」「近代詩文書」「少字数書」「篆刻」「刻字」「前衛書」と、ほぼ現在と同様の7部門が成立した。応募点数は年々増え、第19回展では通期の陳列が困難になり、秀作以上の入賞作品は全期間、入選作品は前期、後期に2分して展示されることになった。
 最後の毎日書道展、毎日前衛書展併催となった昭和43年の第20回展では、役員作家は名誉会員25人、会員240人、委嘱作家507人の計772人を擁し、公募数は両展を合わせ4,765点。入選数は3,102点(入選率65%)で、初めて3千台に突入した。

【運営機構の改革】
 公募点数が増加するにつれ、書道展の運営を効率化する必要性が求められ、昭和35年(1960年)の第12回毎日書道展から、参与会が設けられた。運営委員の選考、運営上の基本方針、その他の重要事項を審議決定する機関で、参与には青山杉雨、安東聖空、飯島春敬、大池晴嵐、 金子鷗亭、手島右卿、平尾狐往、松井如流、松丸東魚、村上三島が選ばれた(翌年、前衛展の参与に上田桑鳩が選ばれた)。
 しかし陳列をはじめ、運営のかなりの部分を金子鷗亭とその一門・随鴎書道会に負うところが多く、このため昭和39年の第16回毎日書道展から、毎日新聞社が主催者として責任を持ち、運営に当たることになった。
 機構の改革は、以下のようなものだった。
 (1) 会長には毎日新聞社社長が就任、副会長には同社会長、副社長が就任する。
 (2) 同社の関係各局長を参与とし、関係各部長を運営委員とする。
 (3) 毎日新聞社内に毎日書道展事務局を設け、事務局長には事業部長が就任、専任委員を置く。
 この改革で主催者の責任が明確になり、毎日書道展の基盤も強まり、書道関連事業の展開、紙面での紹介なども通じて、隆盛の道をたどった。

 余談になるが、この時期の2つのエピソードを紹介しておく。
 昭和40年(1965年)の第17回毎日書道展で、シンボルマークの「毎」の文字がデザイン化された。顔真卿の祭文「祭姪稿(さいてつこう)」から借用したもので、乾元元年(758年)顔氏が49歳の時の書である。現在もポスター、招待券、名鑑表紙などに使用されている。
 また、翌昭和41年9月23日、毎日新聞東京本社は有楽町から竹橋のパレスサイドビルに移転し、書道展事務局も同社事業部内に移された。新館移転を記念して、参与・運営委員の書家34人が同社に書作品を贈っている。

全国に拡大する毎日展
【一本化した毎日展】

 毎日前衛書展と合体した「毎日書道展」が開催された昭和44年(1969年)の第21回展から、新しい機構とともに、展覧会の構成、運営、審査、表彰、会計など6章からなる「毎日書道展規約」が制定された。
 新機構の主な改正点は
 (1) 諮問委員会を設けて会長の最高諮問機関とする
 (2) 運営委員選考の母体であった参与会を廃して、新たに運営委員選考会を設ける
 (3) 運営委員は原則として30人とし、その任期は1年とする。重任は各部半数とし、再重任は認めない
 (4) 事務局に大阪、西部、中部支部を設け、支部長にはそれぞれの毎日新聞社事業部部長、課長があたる
 (5) 本展の会計は毎日新聞社(主催者)の責任において行い、協賛費、出品料、入場料、名鑑広告などの収入により運営する。剰余金は特別会計として取り扱う
−等であった。
 主催者の責任、書壇との関係が緊密、明確になり、全国展としての体制が整い、九州展(北九州市・八幡製鉄体育館)、中部展(名古屋市・愛知県美術館)、米沢展(米沢市・上杉美術館)の3巡回展が開催された。巡回展はその後も会場が増え続け、昭和54年(1979年)の第31回展から「東京展」のほか「京都展」「中部展」「九州展」「広島展」を加えた計5会場を、いずれも毎日書道展の「本展」として開催、公募入選作品を分散陳列した。第32回展では「北海道展」「四国展」が加わり、本展は全国7会場制になった。
 また毎日書道展の本展のほかにも、各種展覧会が発足した。昭和45年(1970年)1月には皇后陛下、三笠宮妃殿下をお迎えして、東京・日本橋高島屋で「第1回現代女流書展」が開かれた。皇族方を迎え、以後毎年開催され、春の訪れを告げる華やかな風物になり、親しまれている。 平成11年(1999年)には30回の記念展にあたり、「現代女流書1(100人展」として装いを新たにした。
 書を個人の住宅に飾り親しんでもらい、併せて書のマーケット確立の一歩として、昭和52年(1977年)5月には東京・銀座松坂屋で「毎日書道小品展」が開かれた。毎日書道展の書家97人の小品作品をすべて額装し、安価で頒布した。翌53年からは年末に開催され、売上金の一部を(財)毎日新聞東京社会事業団に寄託するようになり、チャリティ一書展としての社会的意義も加えて、現在まで続いている。

【急増する公募作品とその対策】
 一本化した毎日書道展の公募作品は増え続け、入選率も厳しくなった。第21回展で公募点数5,674点、入選率55%だったのが、翌45年(1970年)第22回展には公募作品6,220点となり、陳列スペースからも入選率を50%に抑えざるをえなくなった。
以後の公募作品数の増加ぶりをみる。
 第23回展(昭和46年) 6,907点
 第25回展(昭和48年) 10,293点
 第28回展(昭和51年) 13,487点
 第30回展(昭和53年) 15,924点
 第32回展(昭和55年) 17,607点
 この間題に対応するため、作品寸法の縮小、陳列会場の増設、分割陳列、入選率の変更など試行錯誤が試みられた。昭和55年(1980年)の第32回展までのいくつかの対応策を挙げると
◇作品寸法
第23回展で、従来の3×8尺と6×6尺だったのを、2×8尺と5×5尺に、新たに3×6尺を加えた作品寸法に縮小した。さらに第27回展では、5×5尺を 4×4尺に、3×6尺を16平方尺以内にするなど縮小をはかった。
◇会場の増設と分割陳列
昭和48年(1973年)の第25回展は記念展にあたり、43人の功労者表彰、全国13都市での巡回「現代書道展」など記念行事が行われた。同時に東京都美術館が手狭になったため、東京・銀座の東京セントラル美術館を第2会場として会員作品を展示した。翌年の第26回展も東京セントラル美術館を使用したが、基本的な解決策にならなかった。
 昭和51年(1976年)の第28回展は、新装なった東京都美術館での初展覧会になったが、公募点数の激増で7部門の同時開催は不可能で、前期展・後期展の2展制になった。前期展(漢字、かな、篆刻の3部門)、後期展(近代詩文書、少字数書、刻字、前衛書の4部門)制は部門ごとに毎年前後期を交互にし、第32回展まで5年間続けられた。.この間、第32回展から巡回展が「本展」となり、公募入選作品が分散陳列されるようになったことは既に記した。
◇入選率
公募作品の50パーセント入選を守ってきた毎日書道展も、点数増と陳列スペースの関係からついに支えきれず昭和49年(1974年)の第26回展では公募作品12,206点、入選率は45パーセントと厳選されるようになった。第27回展では50パーセント入選を回復するため、作品寸法縮小や各部門の出品基準数が決められ、いわば公募作品を抑える格好にした。
 しかしこの方法にも無理があり、翌年の第28回展では再び入選率は平均43.3パーセントと厳しい選考に戻った。入選率が緩んだのは、5会場本展制をとった第31回展での48.8パーセントだが、昭和62年(1987年)の第39回展入選率49.99パーセントなどを経てようやく50パーセントを回復した。

【海外展の展開と書の国際化】
 1970年代は通貨「円」の変動相場制移行に象徴される国際化の時代、変革期でもあった。経済だけでなく、文化・芸術分野もまた同様だった。基盤を固め、日本国内での現代書巡回展を開催してきた毎日書道展が、海外に目を向ける時期がきたとも言える。
 昭和45年(1970年)にフランスで開かれた「ジャパン・アート・フェスティバル」に協賛して、毎日書道展初の海外展「パリ展」が、3月6日から4月13日まで開催された。パリ市チェルヌスキー美術館を会場に、毎日展代表書作家50人の作品を展示、初日の開会レセプションにはミシュレー仏文化大臣、松井駐仏大使や訪仏団の田中香苗毎日書道展会長はじめ27人が出席した。3日間にわたる席上揮毫は美術愛好家に感銘を与え、パリ展のあと、引き続き「マルセーユ展」が開かれた。
 「パリ展」での好評をきっかけに、70年代には多くの海外展が開かれた。昭和46年(1971年)1月から3月まで米国で「ニューヨーク展」「フィラデルフィア展」、同年11〜12月にはブラジル「リオデジャネイロ展」が開催された。ブラジル出品作品41点は、翌昭和47年にイタリア 「ミラノ展」をへて「バルセロナ展」を皮切りに、スペイン各都市で「スペイン国内巡回展」となり、全作品を同国政府が買い上げた。
 その後、昭和50年(1975年)には「現代書道ブラジル展」(サンパウロ、ブラジリアなど4都市)、昭和51年は米国「シアトル展」と続いた。昭和53年(1978年)には「毎日書道展30周年記念パリ海外展」がソルボンヌ大学礼拝堂で9月から2か月の長期にわたって開かれ、文化交流に大きな役割を果たした。
 漢字の母国・中国との書の交流は、国交問題もからんで少し遅れた。昭和48年(1973年)11月、日中国交回復8年日に日本書道代表団(中村梅吉団長)12人が訪中して、北京、洛陽、西安などを歴訪、各地の交歓会で中国側書家との交友を深めた。この交歓会での作品を主体に翌年、中国側の作品56点に日本側13点を加えた「日中交歓書展」が東京で開かれ、その後北九州、京都を巡回した。 毎日書道展が中国で開催されるのは、昭和63年(1988年)の第40回展記念事業の海外展「北京展」「上海展」まで待たなければならなかった。

財団法人の発足と新生毎日書道展
【財団法人毎日書道会が発足】

 毎日書道展の拡大に伴い、展覧会を、より機能的に運営するため、毎日新聞社から独立した新組織・財団法人を設立することは、新聞社と書壇の一致した構想になっていた。第30回毎日展開催中の昭和53年(1978年)7月、東京都内で財団毎日書道展設立準備委員会が開かれ、「財団毎日書道展」設立が決定された。展覧会の開催権を毎日新聞社から引き継ぐと同時に、新聞社と密接に協力し、展覧会のほかにも書道文化の向上を図ることになった。
 同年9月1日、「財団」事務局は毎日新聞東京本社に開設され、第31、32回展が開催された。しかし「財団」はあくまで任意団体であり、正規の財団法人設立に向けて準備が進められた。
 正規の財団法人の設立は昭和56年(1981年)1月23日付で文部大臣から認可された。これにより「財団法人毎日書道会」が発足、「財団毎日書道展」の一切の権利・義務を引き継いだ。初代理事長には平岡敏男毎日新聞社社長(のち会長)が就任、新聞社と財団の間で「毎日書道展の開催についての業務提携」が結ばれた。この協約に基づいて毎日書道展は、毎日新聞社と毎日書道会との共催となり、第33回展から現在まで続いている。

【日本書展と現代書展】
 昭和56年、初の毎日新聞社と毎日書道会共催による第33回毎日書道展が開催されたが、波乱含みになった。 発展を続けてきた毎日展は、各部門によって入賞による会員(現在の審査会員)昇格に年齢差が出たり、作風の相違による芸術観・評価の差異などから不満がくすぶっていた。ことにいわゆる伝統派から、毎日展を2つに分割開催する主張が出て、それぞれ持ち味の違いも発揮する2展制で運営することになった。同時にそれまでの「1部」…「7部」の呼称は、「漢字部」…「前衛書部」に変更された。
 分割された2展は「毎日日本書展」(漢字部、かな部、篆刻部)と「毎日現代書展」(近代詩文書部、少字数書部、刻字部、前衛書)になり、日程も前期、後期に分かれて東京都美術館で開かれた。運営も全く別個で、賞の名称も従来の「大賞」「準大賞」「毎日賞」「秀作賞」を変更し、毎日日本書展は「日本書展賞」「特選」「秀逸」、毎日現代書展は「会員賞」「毎日賞」「秀作賞」と別々になった。
 他にも不祥事が起きた。関西を中心とした日本かな書道会(宮本竹逕理事長)が、毎日書道展への不出品を決め、かな作品が表具店に留め置かれる事態となり、財団理事でもある宮本氏は、理事を解任された。  第33回毎日展の審査員総会で、平岡敏男理事長は「今度の展覧会から毎日書道展は、日本書展と現代書展の2つの流れによって構成される書の展覧会として、新しいスタートを切りました。書芸術の主張の違い、流れの差異のあるものをひとつの枠に入れておくよりも、2つの枠に分けて、それぞれの独自性、主体性を存分に発揮しよう、それによってお互いが切磋琢磨しながら、日本における書道の興隆、書芸術の高揚をはかろうというのがその趣旨であり、新しい理念を掲げて、その第一歩を跨み出したわけであります」と挨拶した。
 この事件でかな部が前年より約2,000点減となり、公募点数は日本書展7,810点、現代書展8,624点で、合計16,434点だった。しかし翌年の第34回展では、公募点数は日本書展11,406点、現代書展8,823点、合計20,229点と、初めて2万点台にのせた。
 2展制での運営は3回しか続かなかったが、その最後の昭和58年(1983年)第35回毎日展は、公募作品は21,146点になった。部門別の作品数は次のようだった。
 漢字部 6,092
 かな部 5,118
 篆刻部 403
 近代詩文書部  4,668
 少字数書部 1,713
 刻字部 948
 前衛書部 2,204


【読売展へ移籍問題】
 一応順調に推移するかに見えた第35回展東京展も終わった夏のころから、予期せぬ動きが出始めた。読売新聞社が7年間開催してきた公募展「読売書道展」を解消、「読売日本書法展」(現「読売書法展」)を開催することになり、毎日書道展の有力役員書家に出品を求めてきたのである。
 (財)毎日書道会の理事である青山杉雨、村上三島両氏も読売日本書法展と関わりが深いことも分かり、毎日書道会内部も混乱した。このため10月には、読売展の選考委員に名を連ねている(財)毎日書道会の役職者に対し、読売展の選考委員を辞退するか、あるいは毎日書道会の役職を辞退するかの、いずれかをとるようお願いした。
 第33回展で日本書展、現代書展に2分するもとになったわだかまり、東西の反目もあったろうし、いわゆる伝統書と現代書の書作家の間で、書の表現法に対する芸術観の違いも根底にはあった。昭和59年(1984年)3月初旬、第36回展運営委員会が開かれる直前までに、会派、グループごとの連名辞表が相次ぎ、毎日書道展退会者は同人会員、会員683人に及び、殆どが読売書法会へ移籍した。 退会者は日本書展の、漢字、かな、篆刻作家が多かった。

【新生毎日書道展のスタート】
 昭和59年3月5、6両日開かれた第36回展運営委員会で、平岡毎日書道会理事長は「本日の運営委員会は、これからの新しい毎日書道展を拓く大事なワンステップになります。第3回の毎日書道展が、“日本書壇史の歴史的な展覧会ということができる”と意義付けられていたのと同様に、今年の毎日書道展は新生、革新に踏み出す歴史的な展覧会になるでしょう。その為には、その内容を一層充実し歴史の評価に堪えられるようなものにする必要があります」と挨拶した。新生毎日展は金子鷗亭理事が実行委員長を務め、東地滄国獄ア部長、青木香流審査部長、種谷扇舟陳列部長の体制で取り組んだ。
 再建の力点は、漢字、かな部の補強に注がれ、新規団体の加盟、毎日書道展内部での移籍などで陣容が整えられた。会派が増えたことで、出品作品の内容は多彩になり、毎日展35回の歴史と底力が遺憾なく発揮された。公募点数は、かな部がかなり減ったが、合計18,544点を維持した。
 大量移籍は痛手ではあったが、半面では機構・運営が一本化し機能的になった。毎日書道展の役員書家は審査会員、会員とすっきりし、入賞の表彰も、会員を対象にしたグランプリ「会員賞」と、公募作品を対象にした「毎日賞」「秀作賞」に一本化された。
 東京展の展示は「前期展」「後期展」方式に戻り、巡回本展は、中国展は中止されたが、「関西展」(京都市)「九州展」(福岡市)「東海展」(名古屋市)「北海道展」(札幌市)が開かれた。また企画委員会(青木香流委員長、8人)も設置され、展覧会の企画、運営などについて理事会、運営委員会に提言するようになった。
 第37回毎日展の総務部長を務めた中井史朗は、当時のことを「毎日書道展は第35回展までがひと区切りである。 第36回展は新生第1回展といってよい。それは読売書法展へ移行した人たちとの訣別である。訣別という言葉が妥当でなければ、書道界発展のための分派とでもいうべきか。新生毎日書道展の2回目(第37回展)の総務部長に内定していた青木香流民の突然の死去に伴い、その大役が私のところに回ってきた。2万点に及ぶ出品作品の処理、漢字部の再編成などなど難事山積、1か月を無我夢中で過ごした。幾多の人のご協力によって大任を果たした」と回顧している(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」から)。

新機軸を打ち出す毎日展
【停滞から再躍進へ】
 新生毎日書道展の復元力は目覚ましかった。それには、いくつかの改革が伴った。昭和60年(1985年)の第37回展から従来の「少字数書部」が「一字書部」に生まれ変わり、新しい造形を求めた。
 昭和61年の第38回展からは、漢字部をI類(字数21字以上)とII類(2字から20字以内)に分けた。II類での大字の表現への挑戦を期待するとともに、このことで、公募が急増した漢字部の鑑別・審査が迅速に進められるようになった。
 その他の改革、書家の熱意もあって、第38回展での公募作品数は21,891点と、毎日展始まって以来の最多点数を記録し、大量移籍前の第35回展での公募点数を回復、凌駕した。公募作品はその後も順調に増え、昭和63年(1988年)の第40回展では25,181点と、2万5千を突破するまでになった。
 東京展を含む本展の全国展開は、第37回展で「中国展」が復帰、第38回展では「四国展」が復帰したほか、「東北展」が新設され、本展8会場制になった。その後も平成2年(1990年)の第38回展で東北展を「東北仙台展」と「東北山形展」に分離、「北陸展」も新設されて、本展10会 場制になり、50回の記念展を迎えた。この平成2年には、金子鷗亭・(財)毎日書道会理事が文化勲章を受章したが、近代詩文書を含む書業が認められて、現代書には大きな意義のある受章だった。
 毎日書道展の本展10会場の所管地は次のとおりである(第50回展現在まで同じ)。  
 東京展 茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、長野、山梨、静岡の各都県と海外
 北海道展 北海道
 束北仙台展 宮城、岩手、青森の各県
 東北山形展  山形、福島、秋田の各県
 東海展 愛知、岐阜、三重の各県
 北陸展 富山、福井、石川の各県
 関西展 京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の各府県
 中国展 鳥取、島根、岡山、広島の各県
 四国展 徳島、香川、愛媛、高知の各県
 九州展 山口、福岡、佐賀、熊本、長崎、大分、宮崎、鹿児島、沖縄の各県
【表彰制度の新設など】
 毎日書道展の入賞は、会員対象のグランプリ「会員賞」と公募作品を対象にした「毎日賞」「秀作賞」があり、賞状と副賞が贈られてきた。昭和60年(1985年)の第37回展から、この「会員賞」「毎日賞」受賞者の中から選抜して「中国への書の研修視察団」を派遣することになった。 第1回派遣団には会員賞2人、毎日賞11人が選ばれ、10月に中国・北京、洛陽、漢中、西安、上海を回り文物、磨崖などを研修した。団員の間には帰国後も書の部門・会派を超えて交友が続き、書作活動に刺激を与えあっている。 「研修視察団」の派遣は、その後も毎年続けられている。
 平成3年(1991年)の第43回毎日展からは「文部大臣賞」が新設された。書の展覧会では、文部大臣賞は日展での授与だけだったが、同じ歴史を重ねる在野の毎日展にも授与されることになった。当該年度の毎日書道展に出品された公募作品、役員作品など全作品を対象に選考され文部大臣に申請される最高の賞に位置付けられた。第1回は、大平山涛・(財)毎日書道会理事の近代詩文書作品が受賞した。
 また展覧会表彰とは別に、昭和63年の第40回記念展から「毎日書道顕彰」制度が発足した。書道に関する芸術・学術・教育の振興に著しく貢献した個人、およびグループを(財)毎日書道会が顕彰するもので、その後「毎日書道顕彰奨励賞」も加えられた。第1回では飯島春敬 (学術)、比田井南谷(書道芸術)両氏が顕彰された。
 これらの表彰・事業は財団法人としての毎日書道会の基盤が安定し、展覧会も役員書家の努力と、毎日新聞社との共催で緊密な運営が確立したことにはかならない。 1990年代には、国内外で本展以外にも事業展開できる力を蓄積していく。

【国内啓蒙活動と海外展】
 国内での現代書啓蒙・振興のために、本展の開催されない都市での巡回展も活発に催されるようになった。 昭和60年(1985年)には、「毎日現代書道展」が8月の松江市を皮切りに翌年4月末まで、高松、松山、福山、旭川、苫小牧、北九州、長崎、前橋、仙台、秋田の11都市で巡回展示された。役員書家の出品作品は、7部門72点だった。
 巡回展は、第45回展を記念して、平成5年(1993年)から翌6年にかけても福山、高知、松江、金沢、大分、郡山、前橋、帯広、旭川、長岡の10都市で開催された。巡回役員作品に、地元書作家作品を加えたり、講演会を開くなど全国巡回展「毎日現代書展」として面目を施した。
 このほか昭和61年1月には、大阪市で「毎日現代書関西代表作家展」が開催された。関西での毎日書道展の体制強化のため、関西2府4県の毎日展審査会員、会員の新作110点と毎日書道会理事作品6点を展示、併せて「春敬記念書道文庫」所蔵の古筆を「平安の名筆」として特別陳列した。この代表作家展は、毎年続けられて関西での初春の風物になっている。
 海外展は第30回展記念の「パリ展」以来10年ぶりに、第40回毎日展を記念して昭和63年(1988年)4月から、翌平成元年12月まで北京、上海、ミュンヘン、ウィーン、オッへンバッハ、モスクワ、ゲントの7都市で巡回開催された。さらに平成2年(1990年)から翌3年にかけては、毎日展の選抜書家による85作品の「日本の現代書」展がフランクフルト、コペンハーゲン、サンクトペテルブルク、ミュンヘン、ベルリン、ダブリン、ベルファストの7都市を巡回した。これらの海外展は、芸術としての現代書を強く印象づけた。ことに中国での開催は初めてであり、各書団体の独自の交流も加わって、やがて東アジア各国で、書の国際交流が盛んになるきっかけになったともいえる。

平成の書・21世紀の書を求めて
【21世紀へ向けて】
 平成5年(1993年)の第45回毎日展では、公募作品数は29,598点と、3万点に迫った。全体に高齢化している公募者、若年層の掘り起こし、作品寸法など、将来に向けて対応すべき問題も多くなった。翌平成6年には、毎日書道展の将来を考え、同時に50周年記念行事を検討するため「本展企画委員会」「事業企画委員会」の2つの委員会が設置され、いくつかの提言が理事会に出され、実施に移された。
 本展についての改革は、平成8年(1996年)の第48回毎日書道展で実施された。改革点は3点に及んだ。  
 (1)  従来の「一字書部」を「大字書部」と改名し、字数を2字までとした。これに伴い「漢字II類」の字数は3字から20字までに変更された。2字にすることで、大字の新しい表現に挑戦するためでもあった。
 (2)  公募作品サイズの変更。寸法の縮小は、公募点数増に対応する陳列の問題と、書きやすさなどが考慮された結果だった。寸法は篆刻、刻字以外は「6尺×2尺」「5尺×2.4尺」「3尺×4尺」(縦横自由)の3形式に改められた。
 (3) 会友の所属部門の作品は、無鑑査(入選扱い)としたことである。会友制度は、毎日展入選10回以上の人を、その功労に報いるため、第41回展から発足した。しかし、会友作品は一般公募と同様に鑑別・審査を受けており、功に報いる形になっていなかった。
 3つの改革を実施した第48回毎日展の公募作品数は、30,009点と初めて3万点台に達した。翌年は微減したものの、半世紀の歴史を刻んだ第50回毎日展では30,358点と、毎日展始まって以来の最多点数を記録した。
 第48回毎日展の表彰式で、小池唯夫理事長(毎日新聞社社長)は「毎日書道会では、なるべく多くの方に出品していただきたいということで、作品サイズの縮小や会友の作品を無鑑査にする、また一字書部を大字書部に名称変更するなど、いろいろな改革をしてきました。そういう努力の結果が、今回3万点の大台に乗ることになったと、心から皆様にお礼申し上げたい。毎日書道展が益々発展するための、今年はひとつの節目の年であったと思います」と挨拶している。
 毎日書道展の本展以外の国内展では、平成5年(1993年)から、毎日新聞創刊120年を記念して、毎日新聞社と毎日書道会の主催で「国際高校生選抜書展」が創設された。感性のある人たちに、若いうちから書を学んでもらい、次代のリーダーを育成し、21世紀の書道界を切り開いてもらう期待から始まったもので、同年2月に大阪市立美術館で開催された。国内高校生から30,478点の作品が寄せられ、入選・入賞作品1,727点と、海外・在日留学生11か国122点の招待作品を一堂に展覧した。初春の大阪での開催ということで、「書の甲子園」の愛称で親しまれ、平成9年(1997年)の第5回記念国際高校生選抜書展では日本を含む17か国、52,414人が参加し、作品も格段に向上した。
 また平成4年(1992年)2月には東京・竹橋のパレスサイドビル1階に「アートサロン毎日」を開設、前年まで海外7都市を巡回した「現代日本の書」帰国展が開催された。アートサロン毎日は毎日展の役員書家、団体、会員昇格記念展など、作品発表の場として利用されるようになっている。

【広がる国際交流】
 毎日新聞社、毎日書道会が主催する海外展はその後、第45回展記念の平成5年(1993年)米国・ワシントンDCとクリントン米大統領の出身地・アーカンソー州リトルロック市で「現代日本の書」展が開かれた。大規模な海外展は第50回展記念の平成10年(1998年)の北京、パリ、ストックホルム3展まで開催されなかったが、東アジアでの書の国際交流が急速に進んだ。
 平成2年(1990年)には中国、台湾、韓国、香港、マレーシア、シンガポール、日本の7か国・地域が中心になって、シンガポールで「第1回国際書法交流大展」が開かれ、毎日書道会から32人の役員書家が出品した。交流大展はなるべく2年に1度開くことになり、第2回展は平成5年 (1993年)北京で開催された。
 そして平成7年(1995年)は日本開催となり、毎日新聞社と毎日書道会の主催で11月未から12月初旬まで「第3回国際書法交流東京大展」が開かれた。毎日書道会79人の作品はじめ中国、台湾、シンガポール、韓国、マレーシア、香港、アメリカ、フィリピン、カナダ、フランス、オラ ンダ、インドの13か国・地域から参加があり、開会式には土井たか子衆院議長が出席した。平成9年(1997年)には、第4回がマレーシア・クアラルンプールで開催された。
 刻字部門も日本刻字協会が中心になり国際交流に取り組み、平成5年には日本、中国、韓国、シンガポールの4か国で国際刻字連盟が設立された。翌年には中国で日中韓3国による第1回国際刻字芸術展が開かれ、刻字協会創立25周年にあたる平成7年(1995年)には東京・池袋で、毎日新聞社も主催者になって、シンガポールも加わった4か国の「国際刻字芸術展東京’95」が開催された。その後シンガポールも回り、平成9年(1997年)には東京・銀座で「第2回国際刻字芸術展東京’97」が開かれた。新たにマレーシアが加わり5か国となり、交流の輪は広がっている。
 また友好都市提携している北京、ソウル、東京(3都市の頭文字をとってBESETOと表記)の文化交流を目的に、平成8年には韓国で「’96ソウルBESETO国際書画展」が開かれた。東京都から毎日新聞社、毎日書道会に要請があり、書家30人の作品を出品した。さらに平成10 年には東京で「’98東京BESETO国際書画展」が開催され、ここにも毎日展の東京圏1都3県の中堅・中心書家30人が出品し、自治体間の国際交流にも一役買っている。
 このような交流展や北京・上海展、「中国へ書の研修視察団」派遣などを通じて中国の考古・文物に接する機会も増えた。その成果として、平成6年(1994年)には東京で「シルクロードのまもり中国・木簡古墓文物展」が開催され、中国・甘粛省文物考古研究所などの協力もあって、相次いで『中国甘粛新出土木簡選』『居延新出土書法木簡選』が出版された。

 第50回記念毎日書道展にあたって、いくつかの行事・事業が展開されたが、20世紀後半の書芸術をリードした巨匠の代表作・話題作を展覧した「墨魂の巨匠一現代の書50年」展は東京、京都で開催され、大きな話題を呼んだ。現在も十分新鮮で、意欲的なこれらの作品を眼前にした ことで、多くの書作家は21世紀の書への取り組みを改めて決意した。
 
 
  展覧会のご案内  
 
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